S県北津市。
 少し、この市について、説明しようと思う。
 最も、この市がこの先、深くストーリーに関わってくるかどうかは分からないので、面倒だと思う人は読み飛ばしてもらっても、かまわないと思う
 人口は6,3000人
 1980年前半頃、新駅ができたことで、急速に発展してきた町である。
 住民の大半は、駅から程近い新興住宅街とアパートなどの団地か、少し高台にある別荘地帯に住んでいる。ここには金持ちの別荘の他、昔からこの地に住んでいる歴史のある家々が並んでいる。人口が増えて発展したとは言っても、ここからさらに奥に行くと田園地帯や人の手が加わっていない山もかなり残っている。
『世良邸』は、その別荘地帯に居を構えている邸で、都心部ならば、二、三十億はしそうな和風住宅。さらに、離れた場所に土地を2つ所持しており、昔は使用人や小作人の類が使っていた家があったらしいが、今は月極制の駐車場になっていて、結構な収入源となっている。
 住人は3人で、うち血が繋がっているのは2人。
 世良 雷太 風太。
 そして、紅 朱音。
 
 
『世良邸』は、いつもと少し違う朝を迎えていた。
「おらぁーっ! 朝だぞー!」
 自分の眼前に突然現れた殺気によって、夢の世界から一気に覚醒した風太は、体を回転させて、布団から抜け出した。
 直後に、ドズンっという音が部屋に響いた
「ちぃっ 外したか」
 舌打ちしながら悔しがる雷太の肘は、先ほどまで風太の頭があった枕にめり込んでいた。
「兄貴! 顔にエルボードロップは洒落になってねーぞ。なに考えてんだよ。全く!」
「しかし、まあ、よだれ垂らして熟睡してた状態から俺の殺気を感じ取ってかわしたな。お前も成長したもんだ。うんうん。」
「って聞いてるのかよ!」
「成長って言えば、朱音の奴も。中学の頃は発育不良なのではないかと心配したが、この1、2年でぐっと女らしくなっちゃってさぁ。まだ化粧も習得してないのに、異性同姓問わず引きつけるような魅力がある。そうは思わないか』
 もう、風太は言い返すのをやめた。雷太が「聞いてるのか」と聞いて「聞いてるよ」と返さないときは最初っから本当に聞いてないか、相手がイラつくのを楽しんでいるのだ。そうでないときもあるが、大抵はそうだ
「おい、『そうは思わないか』て聞いているのに、だんまりかよ」
 今回は本当に聞いてなかったらしい
「え? ああ。そう思うよ」
「返事が生ぬるいなぁ。本当にちゃんと聞いてたのか」
「朱が最近、めっきりキレイになったってことだろう。」
「やっぱ聞いてないな。キレイなだけなら、前からそうだが、俺はさらに成長したって言ってるんだ。全体は細いのに、ついているべきものはしっかりついていてさ。」
 へへへと笑いを浮かべながら、指はなにかを弄くるような怪しい動きをしていた。
「おい、朱音をそんな風に見てたのか。兄貴は。なんだか、すごく気持ち悪いぞ」
「失敬な。お前だって、あまり変わらねぇだろう」
「まあ、そうだけど」
 やはり、兄弟なのだろう
 あっさりと認めるのは図星なのに、変に否定すれば、兄はそこを上手く責めてくるということを共に暮らしてきたから分かっているのだ。そういうのを嗅ぎつけるうまさはさすがに刑事というところだろうか。
「うんうん。やっぱそう思うよな。だからこそ誕生日のプレセントをあれにしたんだろう。」
「あれのことは言ってないよな。兄貴」
「秘密をぺらぺらしゃべる人間に、警官っていう仕事が務まると思ってるのかよ」
「ならいいけどさ。そろそろ着替えたいから、出て行ってくれよ。」
「何恥ずかしがってんだ。なんなら、おまえの成長具合もじっくり見てやったっていいんだぞ」
「変態かよ! 兄貴は。いいから出て行けって。朱にももうすぐ行くって伝えといてよ」
「へいへい」
 雷太が出て行ってから、適当にタンスから今日の服を見繕って着替え、この家をほぼ縦断している廊下を歩く。途中、仏壇の置かれている座敷部屋で風太は足を止めた。仏壇だけが置かれた簡素を通り越して、殺風景な部屋だが、盆が来てからは、僧侶の人が何度か来た。
 
 今は閉じられている観音開きの扉の、浄土宗式の仏壇の中には風太は名前も知らない飾りの他、母、奈保美の位牌が置かれている。
 奈保美は、17年前、風太を故郷で産みたいと、里帰りを兼ねた家族旅行に出かけた先で、暴漢に襲われて死んだ、同時に襲われた心一は一命を取り留めた(雷太は奈保美の実家にいたので、現場には居合わせなかった)。そして、息を引き取る直前の奈保美の体から風太は取り出された。朱はどういう経緯か詳しくは知らないが、旅行先の病院から退院した父が、風太と一緒に抱いてきたのだという。
 そのことを、風太は雷太から聞いていた
(父さんも、もしかしたらここに位牌が置かれることになるんだろうか)
 父、世良心一が突然の失踪をしてから、すでに1年以上が経っていた。
 優秀な警察官で、20年以上この街を守り、それ以外の地域活動にも積極的に参加して地元の人からは名士とまで呼ばれていた。らしい。
 風太はそんな父親の姿をあまり覚えていない。
 
 周囲の人は、自分が生まれてから、つまり奈保美を亡くしてから精神を病んでしまったようだと言っていた。時々、発作的に頭を抱えてうめき声をあげるし、1度しかないが、理由も泣く自分を殴ったと思ったら、すぐに謝ってきた。そのうち、仕事に支障が出るようになって仕事も辞めてしまった。確か、自分が13歳の時だったと思う。幸い、これまでの貯金などの資産と退職金で、経済的な不便はなかったけれども。失踪する直前は、部屋からほとんど出てこなくなってしまった。時々、大きな音がして、まるで父が父自身を閉じ込めているようだった。食事も、部屋の前に、置いていつのまにか片づけられている食器を回収するだけ。顔も合わせない。ドア越しに、会話も試みたが、二言三言返してくるだけだった。そして、いつのまにかいなくなった。周囲の人たちは、やはり事故で妻を亡くしたのが、堪えていたんだろうと噂しあった。
 さらに、陰で自分が死んだ妻に瓜二つだから、余計辛いんだという人間もいた。
 余計な事まで思い出しそうになってしまったので、それを払拭するために、風太は輪(りん)を鳴らした
 聞くものの哀愁を誘う、あの独特の音が部屋に響いた

 途中で、歯磨きや洗面、寝癖なおしも済ませて、居間に着いた。
「おはよう、風ちゃん。」
「ああ、おはよう。朱音。」
 朱音は家の中では風太のことを、こう呼んでいる。さすがに外では風太の激しい抗議があったため、別の呼び方をしているが、今でも時々は呼んでいる。
(兄貴のことは、『雷兄さん』なんて呼ぶのに。まあ、同い年なのに、兄さんって呼ばれるのも変だとは思うけど)
 しかし、『風ちゃん』では完璧、風太の方が下だ。
(そんなに男として、俺って頼りなく見えちゃってるのかな)
 などと、余計な邪推をしてしまうのだった。
 最も、そんな邪推も朝食の前にすると、どうでもよくなる程度のものだ
 食卓の上には、ご飯にみそ汁に、卵焼き、そして、コーヒーが準備された和洋折衷なメニューとなっていた。
 こうなっているのも、『朝は米がいい。でも、コーヒーも飲みたい』とわがままを言う人間が家にいるからだが、当の本人は新聞を読みながら、何かをちらちらと伺っている風だった。
 蛇足だが、朝食は全て朱音が作ったものだろう。風太と雷太の二人も料理が出来ないわけではない。風太も料理は上手いが、つい甘口になってしまうので、料理は朱音の担当となっている
 ドアを背にする自分の定位置に座った風太はエプロンを脱ぎ、自分の向かいの席に座った朱音を風太は見た。
(本当に、きれいにというか、女っぽくなったよなって、これじゃあ、兄貴と思考が同レベルだ)
 と思いながら、風太はコーヒーを口に運んだ
 次の瞬間
「ぐほっ! ごほっ ごほっ!!」
「どっどうしたの。風ちゃん!?」
「何だ!? このコーヒー! 何か苦い!」
「風ちゃん、コーヒーが苦いのは当たり前だよ」
「いや、そんなんじゃない。そんなんじゃないんだ」
 っと、風太は自分の右隣にいる雷太が、新聞で顔を隠しつつ、笑い堪えるように体を小刻みに震わせているのに、気がついた
「あ、兄貴。まさか。」
「うわはははー! かかったなッ アホが!」
 とうとう、雷太は新聞を放り出して、大口を開けて笑い始めた。
「兄貴! 何入れたんだよ!」
「はっはっは。昔懐かしい、にがりよ。はっはっは。」
「あーッ! 俺が前に豆腐作ろうと思って買ってきたやつか!」
「体にいいんだぜ。やせるぞ。」
「あれは嘘情報だって。ていうか、ガキみたいなことして、兄貴今年でいくつだよ」
「24だよ」
「24にもなって、こんなことして、恥ずかしいと思わないのかよ!」
「うるせぇ! 盆休みももらえなかった公務員の気持ちが、夏休みを謳歌する学生に分かってたまるかぁ!!」
 逆ギレである
「はい。喧嘩両成敗。」
 鼻がこすり合わんばかりに身を乗り出しあいだした二人の頭を朱が叩いて、場を収めた。
「コーヒーは入れなおしてあげるから、馬鹿なことで喧嘩するのはやめやめ」
 といいつつ、朱音の表情は少し笑顔だった
「何だよ。俺は何もやってないのに」
「恨むなら、日本の警察機関を恨め」
 朱音が風太のコーヒーを入れなおしに、席を立ったところで、風太はテレビを点けた。やられたことがくだらないだけに、何かに当たるのも大人気ないと思ったが、何かで気を紛らわせないと気分が鎮まらない気がした
 テレビは地元の地方ニュース番組で、少し高い声の二十代後半に見える男性アナウンサーが原稿を読み上げていた。
「全国で発生している行方不明、死傷事件の続報をお伝えします。今年に入ってから今日までに、行方不明になった人数はS県内で、まもなく三百人を超えようとしています。例年の二倍以上と言う数字ですが、しかし、それ以上に注目すべきは、最近の動向です。
 ここ三ヶ月での死傷事件は前年の三倍。行方不明者は前年の五倍という数字になっており、また、この現象はS県だけでなく、多少の差はあれど、ほぼ全国で発生しています。はっきり言って、『異常』な事態であり、全国の県警は警視庁を中心とし、連携してこの事態の解明に当たっていますが、進展は見られない模様です」
「『異常』な事態か。確かに数は多いだろうけど、それだけで異常っていうのも」
「そう思うか。」
 風太はさっきまでとは雰囲気の違う気配を雷太から感じた。
 この男が、つい数分前まで弟のコーヒーににがりを入れて爆笑していたとは信じられぬほど、険しく、しかし凛々しい表情をしていた。
「別に、なんの根拠もないが、なにか異常なことが、この国に起こっているような気がするんだ。犯罪とか、法律では括れないような何かがな」
(守る男の顔だ)
 風太はそう思った。
 こういう顔になった雷太はどんなヒーローよりも、かっこいいと子供の頃思ったし、今でも誰よりも頼りになると信じている(恥ずかしいから、面と向かっては言わないけれども)
「野口の奴、これを口実に俺の盆休み却下しやがってよぉ。何が、『こういう状況で、君みたいな優秀な人間がいなくなると困る』だよ。優秀ってのは本当だけどよ。」
(・・・撤回しようかな)
「はい、コーヒー入れなおしてきたよ」
 テレビを見ているうちに、朱音が新たにコーヒーを入れたのを持ってきていた
 それからは、いつもの食事風景になった
 テレビのニュースは終わり、当たった試しのない占いを流し始めており、雷太も自分の結果より、盆休みを認めてくれなかった野口という上司の結果が悪いことに喜んでいた。
「さてっと、じゃあ行くかな」
 朝食を終えた雷太は、制服のネクタイを締めながら立ち上がった
 朱音と風太は食器を片して洗い場に向かおうとしている
「おお、そうだ。朱音。」
 雷太は重ねた食器を持って立ち上がった朱音の肩を叩いた
「なに?」
 肩を叩かれた方向に振り向いた朱だったが、
 ぶにッ
 頬に、雷太の指が刺さった。要するに、子供がよくやっているいたずらである
「うわははは。ひっかかったな。」
(兄貴、あいつは・・・)
「いやあ、柔らかいほっぺだねぇ。これだけでお兄ちゃんは、ごはんおかわり出来そうだよ。」
 ぴしっ
 ご機嫌な笑みを浮かべる雷太の顔を、何かが打った。
 朱が自分の頭の後ろで束ねている髪の毛だった。とはいっても、頭と首の付け根部分で束ねているから、一般的なポニーテールとは少し違う尻尾ヘアーである。
(尻尾ビンタ?)
 160cmに満たない身長の朱音の"尻尾"が、180超の雷太の顔に見事にヒットする様は、そう形容するにもふさわしいものだった。
「ったく、いい加減にしないと怒るよ。雷兄さん。」
 顔を尻尾ビンタで打たれた雷太は、顔をさすりながら出勤の途につくことになった。
 その後、朱と洗い物を済ませた風太はいそいそと外出の準備を始めだした
「あれ? 今日は風ちゃんも何か用事あったっけ。」
「野球の助っ人。」
「まだやってたの。」
 ついでに言うと、風太は、運動神経がいいだけでなく、兄の影響で腕っ節もかなりのものだ
 昔は空手部や柔道部などの助っ人もやっていた
 それを妬んで絡んできた連中を返り討ちにしてやったこともある
 さすがにそんなことがあってからはそういうことは控えるようになった
「本当にお金もらってないんでしょうね」
「失敬な。そんなことするかよ。善意だよ。善意」
「ならいいけど」
「一試合だけだし、昼過ぎには戻れると思うから。」
「うん。分かった。いってらっしゃい」
 
 当然だが、風太が出て行ってしまえば、この家は朱一人となる。
 家の中にいても、しょうがないので、朱音もどこかに出かけることにした。だれかを誘おうかとも思ったが、他愛のない自分の暇つぶしに他人をつき合わせるのもはばかられたので結局やめた。
(とりあえず、『キサラギ』にでもいこうかな。そういえば、新しい喫茶店も見つけたんだった。たまには一人で喫茶店ってのも悪くないよね)
 などと考えつつ、外出の身支度を終えて、玄関に向かおうとしているところでチャイムが鳴った
「はい。」
「ああ、どうも。仕立て屋田村ですが、判子かサインいただけますか」
 判子を取りに行くのも面倒だったので、サインをすることにした
 『世良』と書いて、それを○で囲む
 自分は本来、世良の家では余所者なんだということを再認識せざるをえないため、あまり好きではない
「ありがとうございます」
 何かを祝うような笑顔を返して、男は世良邸から去っていった
 ダンボール箱を持って家の中に戻る
「仕立て屋田村って何か頼んでいたのかな」
 箱を見てみると、受取人が自分になっている
(まさか、爆弾とか死体とかじゃないよね)
 まさかと思いつつも、箱に耳を当て、次に軽く振り回してみる
 箱の大きさの割には軽いことに気づく
(こんなに軽いんだから、そんなものが入ってるわけないか)
 とりあえず、開けてみることにした
「え。これって」

(なんだかしけてるな。まあ、一試合だけだし、しょうがないか)
 風太は受け取った『善意』を勘定しつつ、帰宅の途についていたら、家の前で不審、というより不思議な人影に目を奪われた
 女、しかも赤いドレスを着ているのだ
 遠目でも目を惹きつけられる
 それがこっちに向かって歩いてくる
 距離が縮まってきて、ようやく朱音だと気がついた
「あはは。風ちゃん。おかえり」
 自分を見ながら、ほうとしている風太がおかしかったのか、朱音は今日一番の笑顔で言った。さらに人を惹きつける可憐な笑顔だった。
 しかし、風太は別のことを考えていた
(何故、もう届いてるんだ。というか、なんか俺の発注したデザインと微妙に違う)
「プレゼントありがとう。でも、私の誕生日は明日だよ。こんなのまで一緒に入れておくなんて風ちゃんて意外と人を驚かせるのが上手だね」
 と言いながら、朱音は『Happy Birthday 朱音』と書かれたカードを見せた
(そんなもの書いてないぞ。なんで英語と日本語が混じってるんだよ)
 ここで、風太の脳裏にある人物の姿が浮かんできた
(兄貴だな。『注文しといてやる』なんて言って、その時に書いて入れたな。そして、デザインも微妙に変えて注文したな。今日に届いたのは兄貴が意図的にやったか。それとも単純なミスか。どっちでもいいが、しかし、どいつもこいつも)
 言葉にしない愚痴を頭の中で反芻する風太だったが、しかし、風太の目は朱音に釘つけになっていた。
 肩から胸にかけての(風太が考えてたデザインより)露出が増えているし、スカートも前の方で切れ目が入って分かれていて、その下にまた別にミニスカートがあり、要するに脚も大分見えるのだ。
 しかも、それらが予想以上に朱音に合っていて、雷太が言っていた『成長』を実感せざるを得ない
(ひょっとしたら、少し顔が赤くなっているかもしれない)
 そんな風太の様子を知ってか知らずか、朱音は少し、いたずらっ子のような笑みを見せて、
「ねぇ。写真撮ってよ」
 と言って後ろ手に持っていたデジタルカメラを取り出した
「はぁ? ここでか」
「うん。太陽を背にした姿をとって欲しいんだ」
「確かに、今太陽がちょうどお前の後ろだが、夕日じゃないんだから、そんなキレイに写るかよ。家の庭じゃダメなのか」
「いいじゃない。なんだか、すんごく気分がいいんだもん」
 からかってるのか真面目なのか分からないが、朱音は時々変なことを言う。
 多分、家の前にいたのも、相当遠くから自分の姿を確認して驚かそうと思ったんだろう。
 ひょっとしたら、双眼鏡でも使ってたかもしれない。
 風太はふうっと軽くため息をついた
「分かったよ。じゃあ、貸して」
「キレイに撮ってね」
「今の朱音ならどんな風に撮ってもキレイだと思うよ」
 半ば冗談だったが、朱音は嬉しそうに少し歩いて風太から距離をとった
 例の髪は今朝のものとは違う赤いリボンでまとめられていた。これは、最初の風太のデザイン案にもあったものである。
 朱音から受け取ったデジタルカメラで、髪を掻きあげるような動作をしたり、鏡の前でするように、スカートの裾を少しあげたりと、思い思いのポーズをする朱音を撮っていく。先ほどは、半ば冗談で言ったが、今の朱音は本当にキレイだと風太は思った。太陽の光を受けて、赤いドレスとそれを纏う朱音は、(少々大げさかもしれないが、)美術の教科書で見た『ビーナスの誕生』という絵画に出てきたビーナスにも負けていないのではないかと思った。
 幸いなことに、他に邪魔な人間も、車が通ったりもしない。
 とりあえず、朱音が満足までは、写真を撮り続けようと思い、十枚を超えようとしていたころ、朱音の後ろに別の人間がいるのに気がついた。
 カメラの撮影範囲の中に入ってしまっている
 いつもなら、ただ男が立ち去るのを待っているところだが、風太は、男が朱音の方に歩いているように見えた
 しかも、男の様子は普通ではなかった。
 所々に切れ目の入っているボロボロの服に、キズはないが、何日も手入れしてなさそうな髪に、薄汚れた顔。しかも、それでいて目だけがギラギラとしている
「朱音、ちょっと待っててくれるか」
 風太は、朱音の横を通り抜けて、男の方へと向かった
 しかし、五メートル程の距離を残して、一瞬風太はこの男に近寄りたくない衝動に駆られた。
 決して男の体は大きくない。一八〇を超え、普通の人間の倍くらい逞しい体つきをした兄、雷太を見慣れた風太からすれば男の体格はせいぜい中の上。
 しかし、人間を無言で気圧す異様な雰囲気。しかも、(実際に出会ったことはないが)ヤクザや(こっちは実際に出会って逆に返り討ちにしてやったこともある)チンピラとは違う。そういうものを感じた。
 風太が足を止めたのは一瞬だったように思ったが、いつの間にか男は風太の目の前に迫っていた
 若干だが、男の方が背が高いので、風太を見下す格好になる。だが、それ以上に遠目から見てもギラギラし手いるように見えた男の目は、異様な輝きを放っているように感じた。
 闇の中で光る猫の目のような、獣性を伴った輝き。
 猫背気味だが、それが逆に獣のような印象を与えた。
「写真撮ってるんだけど、ちょっと邪魔だから向こうの端によってもらえるかな」
 それでも完全には気圧されなかったのは、多分、朱音の前だったからだろう
「お前に用はない」
 口をきゅっと歪ませながら、男がしゃべった
 風太は、男が右腕の力を抜いてぶらぶらと揺らしていることに気がついた
(殴ってくるかもしれない)
「こっちは用があるんだよ。ちょっと端に寄ってくれるだけでいいんだ。モデルに近づかないようにしてもらいたいんだよ」
「言っただろう。用があるのはおまえじゃない」
 そういう男の目が、自分を見ていないことに風太は気がついた
 男の視線は、朱音を見ていた
「あんた、いったい」
「その男から離れろ!」
 別の男の声が、響いた
 風太は新たに現れた男を見たが、再び目を惹きつけられた
 なにしろ、僧侶の格好をしていたのだ
 剃髪こそしていなかったが、手には錫杖まで持っている
 だが、その特徴的な僧衣には、なにか刃物で切られたような跡が、胸のところに真一文字に走っていた。しかも、それが三本、平行に走っているのだ。
「何だ。浅かったのか?」
 今の一言で、風太は僧衣の男の言ったことが理解できてしまった。何があったのか知らないが、この男はここに来る前に、あの僧衣の男を襲ったのだと。直感の域は出ないが、しかし、確信した
「朱音!」
 風太が、朱音の元に走ろうと踵を返した瞬間だった
「邪魔をするな!」
 気がついたら風太は、宙を待っていた。
 周りの景色が、後方へと去っていく
 さっきの男が、砲丸投げの選手が、投げ終えた後のような姿勢でいるのを見て、風太はこの男に投げられたのかと思った。
(そんな馬鹿な。持ち上げられるのに気がつかないほど早く。俺の体重は62キロだぞ。しかも、この速度は。このまま地面に落ちても、やばい)
「うわッ!」
「ぐッ!」
 そう考えた直後、風太は何かと激突した
「くっ。大丈夫か」
 風太が激突したのは僧衣の男だった。しかも、彼が自ら風太のクッション代わりとなったのだ
「あ、ああ。だが、それよりあの男は! 朱音は!」

 話はほんの数分前にもどる。
「朱音、ちょっと待っててくれるか」
 そう言うと、風太は撮影を中断して朱音の脇を通り抜けていった。
 自然、朱音は風太が向かった先を見た。
 男がいた
 その男をみてから、朱音は自分の中で何かが変わっていると実感し始めた。本当は感じていなかったわけではないのだが、ただ気分がいいだけだと思っていた
 ドレスをプレゼントしてもらって、それを着て、それで気分がいいだけだと。
 でも、今のこの気分は、そんなもので済ませられるものじゃない
 目が、あの男に吸い付いてはなれないように、目を離すことができない
 瞬きすらも忘れている
 そのくせ、目の奥がチリチリするような、奇妙な感覚がある
 汗をかいている
 体が熱い。否、血が熱い?
 なのに、なんで、体の震えが止まらない
 頭がぼんやりする。
 意識が、遠のいている。
「朱音!」
 風太の声で、朱音は意識を戻すことが出来た
 風太を文字通り、投げ飛ばした男は、朱音に向かって迫ってきていた
 既に。男がもう3歩も前に歩けば肉迫できる距離にまでなっていた
 しかも、男は右腕を横に広げた奇妙な姿勢で走っていた
「逃げるんだ!」
 風太とは別の(僧衣の)男の声を聞くより早く、朱音は後ろに下がった
 男の右手が、さっきまで朱音のいた空間を薙いだ
 その直前、後ろに下がっていた朱音には当たっていない
 しかし、朱音は左の頬を押さえ、片膝をついた
 朱音の左頬には、平行に横に走る、3つの刃物で切られたような傷がつけられていた。
 剃刃で切ってしまった後のような、鈍く鋭い痛み。
 しかし、奇妙なことに、朱音はその痛みを快感のように感じていた
 そして、何かが変わった。それは朱音自身も実感していた。始まったと言っていいかもしれない。朱音の中の、決定的な何かが。

「くそッ!」
 僧衣の男は、手にしていた錫杖を男に向けた。錫杖の柄は先端にいくほど鋭く尖っていた。丁度、槍投げの槍のように。
「え!?」
 そして、それを男に向かって投げた。鋭利な錫杖の先端を向けて
 流麗な軌跡を描きつつ、錫杖は男の左側の背中に突き刺さった
 位置からすると、心臓を貫いているかもしれない
「なっなにやってるんだよ! あんた!」
 しかし、風太はすぐに、自分が想像していた異常に事態は異常らしいということを理解することとなった
 男の錫杖の突き刺さった部分からは血がほとんど流れていない
「ううん?」
 男が、顔だけ風太たちの方を向けた
 そして、体を貫いている錫杖を抜き始めた。
 しかし、如何なることか、抜かれていく部分は抜かれた瞬間こそ血で濡れているものの、それがすぐに消えていく。傷口から、血が体の中に戻っていっているようにも見えた
 そして、錫杖が抜かれた傷口は、赤い点が残っているだけとなった。
「ふん」
 嘲笑のような笑いを漏らし、男は錫杖を捨てた。錫杖に付けられた金環が、独特の金属音を響かせた
「ったく」
 男は、傷跡を撫でる。まるで、蚊に刺された後を掻いているように見えた。槍のような錫杖が刺さったというのに
「むぅ・・・」
 逆に焦りの表情を浮かべていたのは僧衣の男の方だ
 風太は状況を理解するので精一杯だった。
「余計なことするな。殺すぞ」
(本当に、殺される)
 一瞬そう思った。しかし、確信に近かった
 学校でよく聞く『死んぢゃえばいいのに』とか、『殺してやる』とは全く違う。感情が乗ってない、あまりにも冷淡な響き。
 だが、その衝撃もすぐに吹き飛ぶことになった
(・・・朱音?)
 片膝をついていた朱音が立ち上がっていた
 しかし、遠目から見てもさっきまでとは何かがちがうということが分かる
 左の頬の3つの傷から顎にかけて流れる血。
 それを押さえていた左手は当然、血で濡れている
 それを舐めているのだ。左手にべっとりとついた血を。ジャムを舐める子供のように
「うん?」
 男も気配の変化を察したのか、朱音の方をむいた
 そして、笑った
「やっぱり、そうだったか。面白くなりそうだ」
 右手を拳の形にし、男は再び朱音に向かっていった。さっきよりも早く、瞬きする程の間もなく、男は朱音との距離を詰め、その顔、むしろ頭に自分の拳を叩き込もうとする
 対する、朱音は動かない
 血を舐めることは既に止めている
 しかし、動かない。ただ睨むだけだった
「しゃあッ!」
 軽い風切音と共に、男の右拳は真っ直ぐ繰り出された。ただ、その拳は何故か普通のそれより右に90度曲がり、縦になっている
 その拳を。
 朱音はかわした
 さらに、自分の上半身を右に傾け、男の腕を右手で制した
「なるほどね。やっぱりそういうこと」
 朱音に掴まれた男の右手。その手首の間接の当たりから、三本の50cmほどの長さの刃物が飛び出していた。おそらくは僧衣の男の着物を切り裂き、朱音の頬に傷を付けたもの
「ぬぅ::」
 男は呻いた。例え、かわされたとしても、横に薙ぐことで追撃するつもりの攻撃。それをこんな力ずくの方法で止められた。しかも、小娘といっていい女に。
 それだけでない。
 押し切れないのだ。
 負けてはいないが、しかし、動かない。
 それが男の心に少なくない衝撃を与えていた。ショックといってもいい
 自分の中で築いていた自身が段々と崩れていくような気分だった
 おかげで、男は左手や脚で朱音に攻撃を加えることを忘れてしまった
「タネが分かってしまえば、まるで子供だましよね」
 先に、力比べを止めたのは朱音の方だった
 右手で制している男の腕に、左手も添える。
 そして、そのまま体を180度回転させて、男を投げた。優雅なものではない。力に任せた強引な投げだ
「うおおおおぉぉお!」
 だが、男は十数メートルほども投げ飛ばされていた
(・・・朱音?)
 風太は目の前の確かに起こっている現実をにわかに信じられなかった
 朱音の、大人の男を投げ飛ばす力にではない
『まるで子供だましよね』
 風太の知っている朱音は、あんな嘲笑を交えた冷淡な声は出さない
 明るいが穏やかで、少し鈍い。
 そんな女の子のはずだ
「紅!」
 僧衣の男が、叫んだ
「紅! 受け取れ!」
 いつの間にか、僧衣の男は背中に背負っていた包みを解いていた。細長い筒状のものをそれを包んでいる布ごと投げた
 朱音は一瞬振り返ってそれを右手で受け取った
 さらに、それを包んでいた布を取っていくと、現れたのは、刀だった
 きちんと鞘におさまった独特の反りを持ったそれは紛れもない刀だ。長さは鞘の分を加味しても、刀身だけで80cmはありそうだ。
 しかし、そのことに驚いているのは風太だけだった
 だが、それ以前に
(こいつは、いまさっき紅って言ったよな)
 風太は僧衣の男を見た
「これで・・・いい」
 そうつぶやく男の表情は沈んでいた
 
「ぬうううぅぅぅわあぁぁあ!」
 投げ飛ばされた男ではあったが、猫のように着地すると、態勢を立て直して朱音に向かっていた。あの武器は再び収納されている
 走り、再び間合いを詰めていく。
 そこで男は、朱音が先ほどまで持っていなかった武器を持っていることに気がついた。鞘におさまった刀を。
(あの、男が守っていたものか)
 あの男と戦ったのは、どうしてだったか、今となってはどうでもいいが、だが、あれはただの人間だった。だから、一撃与えてやって、捨て置いた。
(だが、それがどうした)
 今度は、一撃で急所を狙いはしない
(下半身。足から狙う。おそらくかわすだろうが、あの一撃で俺の爪の間合いを完全に測れたわけはない。あいつが、どんなちからを持っていようが、武器など無意味)
 朱音は、
 刀の柄を握り、鞘から刀を引き抜いた。
 反りを持つその形は、紛れもない日本刀。しかし、その刀身は磨き上げられた象牙彫刻のように白かった。
「しゃあぁぁぁあ!」
 既に間合いを十分に詰めた男は、極端に体を沈め、下からすくい上げるような一撃を加えた
 思惑通り、朱音は男の爪の間合いを測れてはいなかった。しかし、すくい上げるような、アッパーに似た攻撃だったのが災いした
「ぅ」
「ぐ」
 男の拳の中指と薬指の間。骨と骨の間に、白い刀の刃が食い込んでいた。
 刀の刃は爪の間を通り、男の拳を切り裂いたのだ
 しかし、朱音も脹脛から膝の辺りまで深い切り傷が刻まれ、爪が突き刺さっている
「思ったよりは伸びるのね。十分止められると思ったんだけど」
 顔をしかめてはいたが、朱音は笑っていた
 男は左手で攻撃を加えようとした。が、刃が食い込んだ右手に異変を覚えた
(・・・退かなければ)
 右手を刃から引き抜き、後ろに向かって跳んだ。いつもの彼なら、退く際にも攻撃を加えることを忘れないが、今回はそれも忘れた
 男は、自分の右手を見た。刃が食い込んだ部分も赤い筋となっているだけ。しかし、その赤い筋から徐々に、血が滲み、そして溢れ出したのだ。
(なんなんだ! これは!)
 心臓の近くを貫かれてもほとんど血を流さなかった事実から鑑みるに、異常な出血といえた。
 そして、朱音の刀は、
 白い刀の刀身の一部が、赤くなっていた
「退いたのは、いい判断よ。獣の危機察知本能って奴かしら」
 くくくっと微笑を交えながら、朱音は言った
「・・・何だその刀は。」
「知ってどうするの。第一、まだ私もよく分かんないの。ただ、体が理解している」
「チィッ。ぬりゃああぁぁぁあ!」
 再び、男は向かっていった。
 朱音は刀の刃先を下にした下段の構えに似た姿勢を取った
 そして、初めて朱音が自分から動いた。跳躍のような踏み込みで、一気に数メートルを移動する。
「ごわぁっ!」
 映画のワンシーンのようだった。
 朱音が男の横を通り過ぎると、男は体勢を崩した。しかも、左わき腹から右肩にかけて、斜めに切り裂かれていた。
 さらに、朱音は振り向き、刀を男の右肩に突き刺した
「ぬううぅぅぅおおおおぉぉぉぉ!!」
 刀は、白い刀身を赤くしていった。
 男は初めて苦悶の表情を浮かべていた。さらに、大きく切り裂かれた傷からも夥しい流血が起こっていた。
 しかし、奇妙なことに、男の体から流れ落ちていく血は、すぐに蒸発して赤い蒸気となって消えていく
「あなたももうおしまいかしら」
 男は、思いっきり体を沈めた。
 右肩に刀が突き刺さっていることなど、鑑みずに。
「なっ!」
「はあっ!」
 さらに、体を回転させて、その流れで朱音の胴に回し蹴りを叩き込んだ。最も、これはダメージを狙ったものではない。
 男は追撃もせずに、凄まじい跳躍力で手近な家の屋根に跳びのり、さらに別の屋根に跳びのっていく。
 すぐに姿は見えなくなってしまった

「・・・逃げた?」
 異常な事態の連続だったが、幕切れは案外あっけないものだった
 しばらく阿呆のように、ぼうとしていた風太だったが、朱音の元に駆け寄っていった
「おい、朱音。」
「あ、ああ。うん。大丈夫。大丈夫だよ」
 朱音はもう、風太が知っているいつもの朱音に戻っていた。だが、その分、手に持った除々に元の白さを取り戻しつつある赤い刀が不釣合いだった。
「紅・・・」
 僧衣の男が、朱音と風太の前に立っていた
「・・・すまない」
「すまない?」
 予想外の言葉に、風太も一瞬、呆気にとられたが、すぐに気を取り戻した
「聞きたいことが多すぎて、頭がおかしくなりそうだが、とりあえず、3つほど聞きたい。まず、あんた誰なんだ。なんで朱音のことを知っている。そして、あの男は何なんだ。納得できるよう答えてくれ」
「・・・何を聞いても、信じられるか・・・」
「それは、聞いてからだ。まず俺は納得したい」
「いいだろう。お前達、世良の人間にも用があったんだ。だが、確かお前には兄がいたな。話はそいつが帰ってきてからでもいいか」
「・・・いいだろう」
 なぜ、自分が世良というのか知ってるのか気になったが、今となってはもう些細なことだと風太は思った。
 これが、最初の始まりだった。



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